先月の16日に母が他界しました。母について書いておきます。
脳梗塞で倒れてから25年、寝た切りになって10年
海外出張に行く度に、姉と旅行に行く度事に、母に何かあればと心配する事がなくなります。
介護は姉が近くにいて、まかせており離れて住む私は何もできなかった。
まだ自宅にいたときに、一度年末年始を姉に代わって面倒みたことがあったくらいで
その時の入浴も、文句ばかりで、ヘルパーさんの方がうまいとか、
ありがとうということが出来ないのかと思いながら、過ごしました
東京に戻る玄関口で、手すりにもたれながら、見送るときに、その時に泣きながら「おおきに、おおきに」と言われた。
気が弱い母をはじめて見た
その時に、私も素直になれて、母ちゃんのおかげで、今がんばれるんやでほんまおおきに、また来るわ・・
それからは、仕事を理由に介護らしいことは出来ずに
年に1度ぐらいしか会いに行けなかった、最後は認知が進み、姉がこの人誰と聞いても、末娘ではない、顔が違うと言われ、寂しい気持ちになった
母には、私の若い頃の顔の記憶しかなかったのかなと
実家から出ていくときに、「これでお前は、親の死に目に会えない」それでもいいのか
と言われました。その通りになったね、父も急死したから、かけつけられず間に合わなかったね
亡くなる近くまで、正直母が嫌いでした。
厳しく、小さい頃以外、物心ついてからは、甘えさせてくれず、やさしい言葉かけはなく、反面教師でした。母のような言い方を人にしないように
思った事をすぐに口に出すひとだった。
晩年特にひどく、右半身が麻痺して、自分ができないことがはがゆいのか、私が家事をする後ろから、いろいろ先回りして口うるさく言ってきたりして
今からやるから、黙ってて
小さい時から、口うるさく言われたこと、野菜の切り方、流し台の洗いかた、水滴をふき取る。きれい好きの母からの厳しい教え
野菜の買い方、小学生のころ、大根をお使いでたのまれ、こんなんあかんよと、もう一回行かされて、
それからの野菜の目利きは、東京にきたときに、役立ちました。
いつも非難されていたし、人生設計についても、自分の価値観を押し付けてくる人でした。
勉強をがんばっても、女はそんなにしなくていい、女が頑張りすぎると苦労する
大学進学も反対したし、それで、自分でやるしかないと思い、アルバイトを3つする事に
自立するため、就職先を東京に選んだ事
逆に自分でやる力をもらえたのかもしれない
離婚をしても、地元に帰る選択はなかった。
百貨店時代に、仕事のTV取材を受けることがあり、全国放送で、密着されるというものでした。久米さんのニュース番組です。オンエアがずれて、ちょうど実家に帰省中のため、母と一緒に見ることが出来ました。
その時に、母が誇らしい顔を私に向けてくれて、離婚をして心配かけたけど、頑張っていることを認めてもらえた気持ちがしました。
母のことは好きじゃないと、夫に公言していましたが、2,3年くらい前から、病院で小さくなった姿を見て、なんだか気持ちの変化がありました。
想い出すのは、小さいころの母のエプロンをにぎりしめている自分だったり、
バイクでやけどをして、大きくなっているのお風呂に抱えていれてもらったこととか、
運動会で走る横をはずかしいのに、一緒に大声で伴走する姿とか
きつい言葉も覚えてるけど、愛情いっぱいに育ててもらったことを思い出していました。
姉から母の訃報を聞いたときや、新幹線で向かうとき、ふっとこみ上げる涙がとまらなかった、覚悟というか、いずれは来ると思っていた日になった。
姉たちも母との関係でいろいろな思いがあり、そのことが姉妹の絆を強めていたと思う
末娘で介護には姉に甘えてきたので、今後何かできることがあればやっていきたい。
今は、母の少し若い頃のちいさな遺影に拝む日々
母ちゃん おおきに
お坊さんが書いてくれた説法です